今から12年前の今日、阪神淡路大震災で被災しました。6時に起きようと思っていたとき、突然の突き上げるような地震。
何が起こったのか、まったく分からず、ただひたすら布団を被って、揺れが治まるを待ちました…。
怖くて怖くて、体が動かなかったけど、本当に怖かったのは、その後。
電気もガスも水道も電話もダメ。何が起こったのか分からないけど、家の中はぐちゃぐちゃで、天井は落ちてるし、棚は倒れているし、食器は全部割れているし、足の踏み場もない状態。
家族の無事を確認して、呆然と過ごしていると、ラジオで大地震が起こったというニュース…。
仕事があったので、パパさんが駅まで見に行ってくれたら、電車が動いていないということ。
数時間後、やっと電気が付いて、テレビを付けた瞬間、目を疑うような映像が目に飛び込んできて、涙が止まらず、呆然と、でもどこか冷静に見ていました。
死傷者の数がどんどん増えていき、友人や知人との連絡はまったく取れず、その間も余震は続き、ママさんと手を取り合って過ごしていました。
パパさんは当時神戸市職員だったので、災害対策本部に缶詰状態。「ママを頼む。お前がしっかりしろ。」と言い残して、いつ帰ってくるか分からない泊まり勤務に出かけました。
何日か経って、少しずつ安否が確認でき、みんな無事だと知ってほっとしました。でも、お友だちのご家族が亡くなったり、仕事の取引先の方が行方不明だったりで、毎日涙を流していたように思います。
当時勤めていた会社の神戸支店は立ち入り禁止だったので、大阪支店に勤務していたのですが、電車が一部分しか通っていないので、大阪まで3時間以上。
途中、最寄り駅まで1時間ほど歩いて、そこから代替バスに乗って、また歩いて、電車に乗って…の毎日でした。
今考えると、ものすごいストレスです。
途中、バスから見える景色は、灰色の世界。建物は倒壊して、道はぐちゃぐちゃで、思い出の場所もどこなのか分からない…。
何度もバスの中や歩きながら泣きました。
思い返すと、その年と翌年は、かなり体調を崩しました。街中ほこりだらけなので、喘息も出るし、夢は見るし、実際に余震もあるし…。
あの強い悲しみと普通の生活ができないストレスと、子宮内膜症の痛みによるストレス、どっちが辛いかと聞かれれば、どちらも同じぐらい辛かったです。
震災経験者にすれば、「内膜症の痛みなんて」と言うかもしれませんが、これはこれで本当に辛かったのです。
震災と子宮内膜症は、私の人生の2大ストレスです。
そして、ひとりでは乗り越えられなかった出来事。周りの人の協力があったからこそ、前向きになれました。
神戸の街は復興し(まだまだなところもありますが)、私の体も元気になりつつある今、「笑って普通に生きることができる」ということに、とても感謝します。
2つのことを通して学んだのは、「諦めちゃいけない」ということと、「必ず良くなるんだ」と信じること。
少しでもゆっくりでも、前に進むことが大切です。
「私だけ、なんで?」と悲観的にならないこと。
辛いことがあって、一通り泣いたら、後は「仕方ないやん。これが現実なんだし。この状態から少しでも良くなるように、信じてがんばるしかないよね。」と思うようにしています。
時間は必ず前に進んでいて、後戻りはできない…。
だったら、明るく前向きに生きなきゃ…。
震災記念日に改めて思いました。
何が起こったのか、まったく分からず、ただひたすら布団を被って、揺れが治まるを待ちました…。
怖くて怖くて、体が動かなかったけど、本当に怖かったのは、その後。
電気もガスも水道も電話もダメ。何が起こったのか分からないけど、家の中はぐちゃぐちゃで、天井は落ちてるし、棚は倒れているし、食器は全部割れているし、足の踏み場もない状態。
家族の無事を確認して、呆然と過ごしていると、ラジオで大地震が起こったというニュース…。
仕事があったので、パパさんが駅まで見に行ってくれたら、電車が動いていないということ。
数時間後、やっと電気が付いて、テレビを付けた瞬間、目を疑うような映像が目に飛び込んできて、涙が止まらず、呆然と、でもどこか冷静に見ていました。
死傷者の数がどんどん増えていき、友人や知人との連絡はまったく取れず、その間も余震は続き、ママさんと手を取り合って過ごしていました。
パパさんは当時神戸市職員だったので、災害対策本部に缶詰状態。「ママを頼む。お前がしっかりしろ。」と言い残して、いつ帰ってくるか分からない泊まり勤務に出かけました。
何日か経って、少しずつ安否が確認でき、みんな無事だと知ってほっとしました。でも、お友だちのご家族が亡くなったり、仕事の取引先の方が行方不明だったりで、毎日涙を流していたように思います。
当時勤めていた会社の神戸支店は立ち入り禁止だったので、大阪支店に勤務していたのですが、電車が一部分しか通っていないので、大阪まで3時間以上。
途中、最寄り駅まで1時間ほど歩いて、そこから代替バスに乗って、また歩いて、電車に乗って…の毎日でした。
今考えると、ものすごいストレスです。
途中、バスから見える景色は、灰色の世界。建物は倒壊して、道はぐちゃぐちゃで、思い出の場所もどこなのか分からない…。
何度もバスの中や歩きながら泣きました。
思い返すと、その年と翌年は、かなり体調を崩しました。街中ほこりだらけなので、喘息も出るし、夢は見るし、実際に余震もあるし…。
あの強い悲しみと普通の生活ができないストレスと、子宮内膜症の痛みによるストレス、どっちが辛いかと聞かれれば、どちらも同じぐらい辛かったです。
震災経験者にすれば、「内膜症の痛みなんて」と言うかもしれませんが、これはこれで本当に辛かったのです。
震災と子宮内膜症は、私の人生の2大ストレスです。
そして、ひとりでは乗り越えられなかった出来事。周りの人の協力があったからこそ、前向きになれました。
神戸の街は復興し(まだまだなところもありますが)、私の体も元気になりつつある今、「笑って普通に生きることができる」ということに、とても感謝します。
2つのことを通して学んだのは、「諦めちゃいけない」ということと、「必ず良くなるんだ」と信じること。
少しでもゆっくりでも、前に進むことが大切です。
「私だけ、なんで?」と悲観的にならないこと。
辛いことがあって、一通り泣いたら、後は「仕方ないやん。これが現実なんだし。この状態から少しでも良くなるように、信じてがんばるしかないよね。」と思うようにしています。
時間は必ず前に進んでいて、後戻りはできない…。
だったら、明るく前向きに生きなきゃ…。
震災記念日に改めて思いました。
コメント
コメント一覧
震災にあった方が言っておられました。
住んでいた建物が壊れてしまって
パジャマのまま何とか抜け出て、知り合いがいるところまで
ずっと歩き続けたそうです。
水も無く途中で花屋さんの花が入っているバケツの水を飲んだと・・・
今いる世界が無くなって
別の世界に変わってしまったような状況だったのでしょうね。
福岡の地震のときも、すごく怖かったです。
止まって欲しいと思っても、巻き戻したいと思っても流れていく時間。
今は立ち尽くして動けなくても
少しずつでもいいから、前に進めたらいいな。
地震は本当に怖いですね。
神戸では、火災もひどくて、街が灰色でした。
今でもたまに地震があると、あのときの悪夢がよぎります…。
でも、少しずつ震災の教訓が薄れていくのも事実。
復興をして前に進んでいかないといけないけど、忘れてはならないことですね。
ぜんぜん話は違うけど、漢方どう?
少しは効果が出てきたかな…。
でも、あのときは何でもがんばれたよね。
生きるのに必死だったし。
でも今はあんまりがんばれなくなったような気がする・・・
忘れちゃいけないね。
そうやねぇ。
あのときは何でもがんばれたよ。
そう思えば、贅沢な生活になったよね。
たまには思い返さないといけないね。
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